43 - 「三十路たくやプレ版「たくやの新生活」-前編」
あたし、相原たくやが彼に出会ったのは、引っ越し作業中のことだった。
「……もしかして、相原先生ですか?」
運送会社の人に混じって両手で抱えられる小さなダンボール箱を運んでいた足を止めて聞き慣れない……けれど古い記憶に振れ、なにかが思い出されるような男性の声の方へと振り向く。
そこに立っていたのは、春先でもまだ寒い日の多い三月だというのにシャツにジーンズと言うシンプルな出で立ちの、二十歳前後の男性だった。顔立ちはやや童顔だけれど、どこの芸能人かと思うほどに整っており、元・男のあたしでも思わずドキッとしてしまった。背はあたしよりも高く、細身でも服の下は異性を感じさせるのに十分な体つきをしていることも見て取れる。この手のタイプは、本人にその気がなくても、さぞや女性の方から言い寄ってくることだろう。
そんな相手から声をかけられたのだけれど……困ったことに、知り合いではない。あたしは逆に、何もしてないのに男性に迫られてエッチな目に遭うタイプだ。彼のような甘い顔立ちの相手に胸をドキドキさせられてだまされた事も一度や二度じゃない。それゆえに「誰?」と思うよりも先に、「ああ、またか」と言う警戒心の方が先に立ってしまう。
でも……見覚えがある。最初に聞いた声で昔の記憶を刺激されたせいだろうか、彼の顔が、過ぎ去った時間を考慮に入れて、ある男の子の顔と重なり合った。
「えっと……」
一瞬の逡巡。それは疑問や不振によるものではなく、純粋に驚きによるモノだ。
もう会うこともないと思っていた男の子。あたしの思い出の中ではいつも少年の姿でしかなかったその彼が、突然目の前に青年の姿で現れたのだから。
「あ……明くん!? なんでここに!?」
以前、家庭教師として勉強をーーそして男と女の身体についてもーー教えてあげていた男の子。もう何年も連絡を取っていなかったその彼がいきなり目の前にいて、声をかけてきてくれた驚きはすぐに再会の喜びに変わり、見違えるような変わりように、
「……おっきくなったねえ」
「なんですそれ。親戚のおばさんと同じようなこと言ってますよ」
「だ、だって、明くん、あたしより背が低かったじゃない。ううう……昔の教え子から上から目線……」
「まだ僕、学生だからぜんぜん偉くないんですけどね。そう言う先生はーー」
そうすることがまるで当然とでも言うように、明くんの手があたしの抱えていたダンボールを持ち上げる。そして、茶色い箱に隠されていた胸元からウエストへ視線が移動し、一度全身を観察してから、おもむろに、
「ずっと……綺麗になった。思ってたより、想像してたより、ずっと」
「――――――っ!?」
ちょ、ちょちょちょっとぉぉぉぉぉ! 何ですかこのいきなりの告白みたいなイベントは!? あ、あのね明くん、そう言うのはあって数分で言うもんじゃ……ほ、ほら、引っ越し業者の人もニヤニヤしてるし! あの人たち、さっきまであたしの身体見て別の意味でニヤニヤしてたのに―――
「何だ、男、いたんだ……引っ越し終わった後のイベントとか期待してたのにな……」
「俺、スゴい美人さんの引っ越しだからって、休み返上給料なしで手伝いに来たのに!」
「泣くな、男だったらいつかは通る道だ。帰りにラーメンおごってやるから、下着の一枚でもくすねて、それを肴に語り明かそうじゃないか……」
「班長、俺、どこでもあなたについて行くッス!」
―――おいこらちょっと待て変態引っ越し屋! 白昼堂々下着ドロすることを宣言しないでよ!
新たな入居者の引っ越しと言うだけでもそれなりに見られてる。そんなところで声を出して騒がれたらたまったものじゃない。前に住んでたとこでも昼間から男引っ張り込んでるとか浮気してるとか根も葉もない噂広められて困ってたのに〜〜〜!
「奥様、聞きました? あの引っ越してきた人、もう男に色目使ってるそうですわよ?」
「あらやだこわい。うちの亭主も誘惑されちゃうのかしら?……慰謝料ふんだくって離婚するチャンスね!?」
「ほかの奥様たちにもすぐ知らせなきゃですわね」
「そーしましょそーしましょ」
―――うわあぁぁぁん! さっそく通りすがりの人に聞かれたぁ! しかもゴシップの好きそうなおばさんがたに!……これでもう、半日後にはスケベな女が引っ越してきたってマンション中に噂が広まっちゃうこと確定か……幸先悪い……
引っ越しをして心機一転、これからワクワクドキドキの新生活が始まるはずだったのに、行く手には瞬く間に暗雲が広がっていく。明くんでさえ、声をかけるタイミングを間違えたと後悔の表情を浮かべ、手に荷物を抱えたまま立ち尽くしている。
―――そう言えば、あたしが入居する部屋、まだ教えてなかったっけ。
それならそれで聞いてくれてもよさそうだけれど、お互いにばつが悪くて、微妙な笑顔を浮かべることしかできない。口を開けば、そこからまた騒動が大きくなりそうで、おっかなびっくりになって。
………でも、こんな感じだった気がするよね。あたしの周りって、いつも。
男の時はそうでもないのに、女になったらダース単位で押し寄せるトラブルハプニングアクシデント。騒がしくて、煩わしくて、だけで自然と頬がゆるんでしまいそうになるのはエッチな目にまだ遭っていないせいだと言っておこう。
―――帰って、来たんだな……
あたしが引っ越してきたのは、新しい職場に近いマンションの最上階3LDK。家具付きで即入居できるその部屋を契約金代わりにポンと引き渡されてやってきたこの場所で、あたしは一度大きく深呼吸をすると、いまや一人の魅力的な男性に成長した明くんをまっすぐに見つめて、
―――ただいま。
それは、なんだか場違いで、タイミングも違っててあ、べ、別に明くんのところに帰ってきたわけでもなくて……うまく説明できないけれど、それは誰かに聞いてほしい言葉だった。―――あたしが、日常に帰ってこれた証に。
だけど、
「はんちょ〜、んで、荷物どこに運べばいいんですか? 一番上? それとも早速同居?」
下着をどうくすねるのか仕事そっちのけで相談していた引っ越し作業員は二人。一人は勝手についてきた人で、本当の二人目は引っ越しトラックの荷台から、いつまでたっても手伝わない仲間にあきれた視線を向けていた。
………この人、タイミング悪いな……
考えてみれば、言おうとしていたのはかなり恥ずかしい台詞なので、言えなくて正解かもしれない。……が、その作業員の男性が煩わしげに口にした言葉は、あたしの周囲の空気を冷たく凍らせた。
「よくまあそこまで男をとっかえひっかえできるよね。”離婚”したばっかりで」
離婚届けを出してきたのは五日前。
再就職の話をもらったのは三日前。
元々は夫婦の寝室だったところで激しく犯されたのは一昨日のこと。
”あの人”に抱かれた感触は、まだ鮮明にあたしの身体の隅々に残っている。精液はすべて膣内に……妊娠できないあたしの身体を無理矢理にでもはらませて、家を出るのを引き留めようとして……その行為の結果がでるのは数ヶ月先。もし出来ていたとしても、あたしは彼の元を去るのをやめなかった。それほどに二人の間に出来た溝は広く深かった。
理由は……たぶん、あたしにある。直接の原因は彼の方にあるとしても、そうさせてしまったのは、あたしの”落ち度”に起因するところが大きいはずだ。
―――まだ、あたしも若かったってことなのかな。
これからの新生活は、自分を見つめ直すいい機会になる。
女になってしまってから、もう何年になるだろう……男に戻る研究をもう一度するのもいい。また別に人を好きになって、苦しい思いをしながらも沿い遂げる運命だって、あたしは選びとることが出来る。
でも―――
「明くん……えっと……」
目の前にいるかつての教え子に、応える言葉が見つけられない。
何を言っても言い訳になりそうで、
微笑みかけても愛想にしかなりそうになくて、
あたしに出来るのはただ、先日感じた締めつけられるような胸の苦しみをこらえ、問うような、責めるような視線を前に唇を噛みしめることだけだった。
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